2011年

6月

28日

行ってきます。

6月23日  

 

東京の義母宅に一泊させてもらうことになっているため、この日が長野最終日。

出発前に慌ただしくも両親+孫との記念撮影、と思ったのにラクの妨害を受けて全く感動的な一枚にならず...

 

両親とは暫く会えなくなるが、このBlogで孫の成長を引き続き見てもらえるだろう。

そもそもは孫と離れて暮らす両親をメイン読者として書いてきた『森山家日誌』だが(ママ日誌は別として)、これからは”離れて暮らす”といっても地球の裏側だから、メールもままならない両親にとっては唯一の孫との接点になるのではないか。

ネット自体を敬遠している母が久しぶりに『森山家日誌』を覗いてみたら、最初に見た日記が”ウタが日本語を理解しなくなった...”なんてコメントでないことを祈る。いやいや、そんなにアルゼンチンには居ないだろう。かつ、そんなに見てもらえないBlogならもう辞める。

 

ということで、これからも『森山家日誌 in ブエノスアイレス』を宜しくお願いします。

 

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2011年

6月

21日

ジィジと孫の関係

夕食後、奥の部屋でアンパンマンをネットで観始めたウタだったが、ちょっと怖そうなシーンがあると独りでは観られない小心者。アンパンマンのどこに怖いシーンがあるというのか...

 

「ラクーーー、おいでーーー!一緒に観よ~~!」と奥から呼んでいる。

「バアバとお風呂だよー!」

「ゆう、おいで~~~!」

「ゴハンの片付け中ーー!」

「ジィジは~?」

「こっちでテレビ観てるよーー!」

「ジィジ、おいでーー!」

 

キム・ヨンジャが朗々と美空ひばりを歌うのを聞いていた父が、その途端リモコンでTVを消して立ち上がると、そのまま奥の部屋へと向かったのを見て驚いた。

夕食の支度中にギャーギャーうるさいラクに対して「うるさいっ!!」と大声で怒鳴って泣かせたのに、夕食時には手厚くフォローしていた姿も目撃されていたし、どうやら我々の出発を間近に控えて最後の孫孝行をしているようだ。

 

私はウタが躊躇なくジィジを呼んだことが嬉しかった。残念ながら呼ばれたのは家族の中で最後だったが(それは容易に想像できた)、一緒にアンパンマンを観ようと父を誘ってくれたウタに、娘として手を合わせたくなった。

完全無欠なスーパー外弁慶の父は、外ではある程度人気者なのかもしれないが、家族にとっては非常に扱いにくい存在だ。子供とにこやかに遊んだり、子供の目線で話しかけたり、ましてや子どもの立場に立って考えたりはしない。できない。いやしない。おちゃらけて見せたり、鉄砲で撃たれるフリもしない。そんな父に子ザル達がなつかないとしたら、それは必然であってどうにも出来ないと思っていた。父のネガティブな言動をポジティブに子ザル達に説明することはあっても、好きになるよう無理強いするのは嫌だった。そんなことしても双方ともに迷惑だろう。

だからこそ、子ザル達が自分からジィジにお近づきになっている姿を見ると嬉しい。

 

願わくば、これから先も2人がジィジに対して寛大な評価をしてくれるといいと思う。特にウタは男同士でもあり、ジィジとはま逆の性格だから、もしかしたら成長しても苦手意識なく接することができるかもしれない。

そして、そうなるよう願いつつ私はジィジをポジティブに孫たちに印象付けるという水面下での誘導作戦を続けていかねばならないだろう。この娘心に父は感謝してくれるだろうか。いやしない。更にはもし父がコレを読んだら、さぞかしブスッとすることだろう...

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2011年

6月

19日

時代と共に変わること

アルゼンチン行きを間近に控えて思ったことがある。数えてみれば驚きの18年前、高校を卒業して単身アメリカに留学する時の自分との違いである。

あの時は、親の大反対を押し切った念願のアメリカ行きだった筈なのに日が近づくにつれ不安になり、最終的には留学なんて辞めれば良かったと後悔した。渡米当日は両親が成田まで見送りに来てくれたが、ガチガチに緊張していた私は殆どまともな挨拶もしないままに出発したし、緊張と気流の乱れで見事に飛行機酔いして何も食べられず、不安のまま到着した夜のボストンは想像とは全く違って寂しくよそよそしかった。語学学校の寮に着いてみれば、派手はスペイン語系の語学留学生達が騒々しく夜遊びに繰り出す用意をしていて、寮の部屋も居心地良さは一切感じられない殺風景なものだったので、落ち込む気持ちに拍車がかかった。

とにかく無事到着したことを親に知らせるために寮内の公衆電話から恐る恐る電話をかけたところ母が出て、その声を聞いた途端に我慢していた涙があふれて止まらなくなり、もう一生日本には帰れないような気持ちになって、モーレツな不安と寂しさに襲われながら母の言葉にウンウンと頷いては窓の外に見えるボストン市街の灯りを見つめていたことは、昨日のことのように記憶にこびりついている。きっと一生忘れない種類の記憶である。

 

そして18年後の今、私はまた言葉の分からない国で生活をしようとしている。

但し今回は気分的にかなり軽やかである。何が違うのだろうと考えたら、まずは家族と一緒だということだろう。言葉が分かるダンナが一緒に行く、というのも大きい。何かあったら、とりあえずダンナに頼ろうという不謹慎な甘えがある。更には自分のことより優先して心配する必要のある2匹の子ザルがいる。子ザル達が安住できることを最優先に考えていると、幸いにして自分の事で不安になっている暇がない。まさに、”女は弱しされど母は強し”である。

 

もう一つは何と言っても文明の利器の発達であろう。18年前は携帯電話もメールもなかった。いや携帯はあったかもしれないが一般的に普及する前だった。なにしろ大学のレポートもPCではなくタイプライターが主流で、学生がPCでレポート提出するようになったのは、大学生活も後半だったような記憶がある。

今回は携帯は解約していく予定だが、メールがあるので日本の家族や友人とも常に連絡を取り合うことができるし、GmailやSkypeでチャットも可能だ。Webカメラとマイク付きのPCがあれば、お互いの顔を見ながらPC越しに会話もできる。友人たちの近況は、彼らのブログやMixi日記で知ることもできるし、ネットがあれば日本のTVドラマやバラエティも大抵観られる。子ザルたちが大好きなアンパンマンも、わざわざDVDを買う必要はない。

 

大学留学時代の私は、寂しくなると迷惑なほど長ったらしいエアメールを親や友人に宛てて書き、投函したら次は返事が来るのをひたすら待つ日々だった。届く手紙を読んでは涙し、日本の歌を聞いては郷愁の念に駆られた。

それがどうだろう。文明の利器により世界のどこにいても繋がりたい人達と繋がることができるようになり、海外へ出ることが気持ちの上で楽になった。別れの言葉も、「じゃあ次はメールでね。」と随分軽いものになった。もちろん海外での慣れない生活で辛い想いもするだろうが、悔し涙で家に帰ってPCの前に座り、Onlineの友人を探して「ちょっと聞いてよ!」と愚痴を言うことも可能なのだ(たまたまOnlineだった人には迷惑な話だ)。

 

気持ちの上での変化をこうして感じ、今の時代をありがたく思えるのも18年前の(今考えると)不自由な留学生活を体験しているからに他ならない。ウタやラクが高校を卒業する頃には更に時代は進み、たとえどれほど距離的に家族から離れて住んだとしても、私が味わったような郷愁の念と心の底からの寂しさを感じることは出来ないのではないか。それは羨ましくもあるし、同時に少し残念な気もする。

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2011年

6月

17日

準備”不”万端

アルゼンチン行きまで一週間。

本当に一週間後に旅立てるのか...と不安になるほどの準備”不”万端。

そもそも何を用意すべきか分からない。というより、逆に何を持っていかないでいいのか分からない。最低1年住むとなれば、何もかも必要な気がしてくる。特に子供達の荷物については、愛用している枕から絵本、オモチャに至るまで、とにかく日頃見慣れているモノは全て持っていきたい。なにしろ環境も言葉も人種も、見るもの全てが新しい所に行くのだから、身の回り品だけは使い慣れた物にして安心させてあげたいというささやかな親心である。

が、そんなことをしたら一体スーツケースがいくつ必要になるのか。仮に許される数量および重量の限界に挑んだとして、誰がそれを持つのか。我々には手荷物のみならず、子ザルという荷物が既に2匹いる。どちらも抱っこやおんぶをするには既に重すぎるし、かといって親を気遣い従順に後ろを着いてくるほど利口でもない。周りの状況を完全に無視して、その時その瞬間の自分の欲求を最優先して行動に移す2匹を伴っての旅なのだから、追加の手荷物は正直できるだけ減らしたいのが本音。でも、せめて子供達の荷物については...(4行目に戻る。(うそうそ、戻らないでください))。

 

もちろん別途アルゼンチンに送るという手もあるが、例えば船で送ると4~6ヶ月かかるというし、航空便だと恐ろしく高い。なのに、ちゃんと宛先住所まで届くという保障がない。というのも輸送途中で箱そのものか荷物の一部が”紛失”することがアルゼンチンでは往々にしてあるらしいのだ。税関職員も郵便職員も、誰も信用できない...高いお金を払っても届かないなら自力で運んだ方がマシではないか...

ありったけの荷物と子ザル2匹を伴い、Transit先のシドニーで超厳しいといわれる税関を通り抜け、右も左も知らない街で3日間過ごしてからのアルゼンチン行き。書いただけで頭を抱えたくなるようなことにしたのは誰だ?(私です)

 

おまけにアルゼンチンで住む所が決まらない。

こちらはダンナが現地の知り合いの助けを借りつつ家具家電付きのアパートを探しているが、なかなか場所、賃料、広さ、部屋数などの条件に見合う所がないようだ。ブエノスアイレス市内で家族4人が住める広さのアパートは結構高い。もちろん全てが揃っているアパートだから高め設定だろうが、家賃としては東京で払っていた額とあまり変わらないという印象だ。完全自費で移住する我が家としては、どうしても物件を見る目も厳しくなるというもの。まぁ出発前までに決まってくれれば御の字と思うことにしよう...

 

ということで、物理的にも心理的にも如何に準備”不”万端か良くお分かり頂けたかと思うので、今日はこの辺で...。本当はもっとあるが、全部書いていたら明日になってしまいます。

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2011年

6月

12日

スゴイ!下栗の里

雨降りの週末となったため、エネルギーをもてあましている子ザル2匹を連れて、母が薦める上村(かみむら)目指してドライブに出ることにした。母曰く、スゴイへき地のスゴイ急斜面に家が点在していて、それがスゴイ景色なのだとか。私に似て(逆か)少々表現が大げさなので母の話は7割程度で聞くことにしているが、今回は本当だった。

自宅から1時間半弱、山を1つ越える長いトンネルを抜けると(これが薄暗くて周りを走る車もなく、午前中なのに不安になる)上村、そこから山道をひた登ると下栗の里という別世界が待っている。

本当にスゴイ傾斜地に民家や畑がある。この日は雨だったため霧が出ていて(写真)、母と2人でスゴイスゴイと言っていたら驚くほどの速さで目の前の山々を視界から消し去った。写真で撮っても真っ白なだけなので、実際の映像で是非見てみてください。

晴れていたら、それこそ南米のマチュピチュみたいな景色が拝めるビューポイントがあるらしいがこの日は諦めた。

更にスゴイのは、この地から我が町に隣接する飯田市に毎日通勤している住人もいるらしい。母の編み物教室のご友人もココ出身で、毎週2~3回は飯田市へ車を走らせるとか。

あり得ない。走ってみれば分かります。スゴイ急斜面の山道をひた降り、そこから田舎道をひた走り、寂しいトンネルを耐え、そこから更に数十分かけないと飯田市街には辿り着かない。考えるだけで疲れる。ゆっくり景色を楽しんでいたら川に落ちるか崖から墜落する。そのリスクを背負ってまで、あんな日本版マチュピチュに住む理由は何だろう...。

 

あの山奥の、あんなに住みにくい土地に家を建て、集落を作った最初の人達は誰だったのか?平家の落武者がひっそり生き延びるために作ったのか、はたまた忍者の里だったとか。そんな空想を膨らませたくなるような場所である。

ここから見る星空がまたスゴイというので、今度は家族で泊まりがけで来てみたいと思った。

 

<下栗の里>

http://tohyamago.com/kankou/simoguri/index.html

 

 

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2011年

6月

07日

強敵

最近、最も嫌いなこと。子どもの歯磨き。

 

勝手気ままで非協力的な子ザルの歯磨きを1日2回、2匹分しなければならないことが如何に母のストレスになっているか、あいつらには分かるまい。

今夜の歯磨きタイムは、2匹がPCでDVDを観ている時間を中断して行われた。当然ながら歯磨きは進まない。ウタの歯を磨こうとするとPCが見えないと文句が出るので、DVDを一時停止しようとすると観ているラクからブーイングが出る。

ひとまずウタには自分で磨かせておいて最初にラクにかかると、いつものことだが(歯磨きストレスの大部分はラクに起因する)おおざっぱに口を開け、歯磨き粉だけチューチュー吸ってすぐ起き上がってしまう。「一番デカい口を開けてみろ!」と体育会系に励ましてみると、逆切れした様子で「アーンッ!」と一瞬開けるがすぐ閉じる。結局羽交い絞めにして身動き取れない状態にしないと満足いく歯磨きは出来ないわけだが、これをすると大絶叫の大号泣で怒り狂って後が長引くので出来るだけしたくない。ならば、こっちが途中で諦めるか、もしくは気長に口を開けさせて頑張るしかないわけだ。今夜は気長に口を開けさせている途中で、私がキレた。

PCの蓋をバタンと閉め、ギャンギャン怒ってみた。母も人間だ。今日は事前にあることで精神的ダメージを負っていたこともあり、本当は歯磨きなんかしたくない。そもそも誰のための歯磨きなのだ。バカモン、バカモン!

 

そしたらウタが大袈裟に困ったような顔をして言った。

「でもさー、ユウちょっと怒りすぎじゃない?声が大きい。もっとちぃ~~しゃい声で言って。」

「だって小さい声で言っても口あけてくれないじゃん!今じゅんちゃんがいないでしょ?ユウが全部しなきゃいけないでしょ?だから2人とももっと協力してくれなきゃ!(とかなり真顔で怒ってどなっている)」

 

ラクはヤベェという顔をして目の前に駆け寄り、「アイ!アイ!」とその場限りの返事をしていたが、ウタは強かった...

「それは分かってるかぁら!ちぃしゃい声で言って。」

 

この時点で噴き出して、こっちの負け。

あいつにゃ勝てん...

 

 

 

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2011年

6月

06日

遭遇率高すぎます。

我が故郷に期限付きUターンしてからの2か月間、私は保育園に通わなくなったラクのため町内外の赤ちゃん広場的な場所や催しに参加する機会を作り、1~2週間に少なくとも1度は出かけていた。

 

彼女に最初に会った(というか見た)のは、4月に行った1歳児広場。元気溌剌としたママさんという印象だが、妙にテンションが高い。とにかく声がデカい。そしてオクターブ高い。更に欽ちゃん劇場的なドタバタ感があって常に急いでいる。慌ただしい。自分自身が慌ただしいので、それ以上にドタバタしている人を見るのは辛い。よし、近づかないことにしよう、と思い遠巻きに見守っていた。

 

しかし彼女は、私が顔を出すあらゆる赤ちゃん広場に登場した。先にも書いたが、私もそう頻繁にそうした場所に行くわけではないし、毎回同じ所に行くわけでもない。なのに、どこへ行っても遭遇する。

最初の1歳児広場で話しかけられ少し会話を交わしたものの、すでに人生の半分を故郷の外で暮らし『方言』という大事なコミュニケーションツールを失くしてしまった私とでは、人見知りというデメリットに目をつぶったとしても会話に広がりの可能性を見いだせなかったようだ。お互いに壁を感じているのは明らかなのに、私にとっては百発百中の遭遇率。

 

当然ながら赤ちゃん広場への足は遠のき、本日久しぶりに町の赤ちゃん広場へ。カレンダーを見て何もイベントがないことを確認。イベントがあれば彼女が参加するのは間違いないが、今日は大丈夫だろう。

行ってみた。ら、10分ほどしてお越しになった...。そうそう、実は昨日も町の図書館に行ったら会ったのだ。どうなってるんだ。

母に言ってみた。「もうさ~どこに行っても会うの。信じられる?どっこに行ってもよ。よほどヒマなんだね~。」

そしたら母が一言、「向こうも同じこと言ってるでしょうねぇ~。」

なるほどね...確かに。

 

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